古民家再生

次の時代へ受け継ぐ

近代建築が進み、家屋も時代と共にハウスメーカー等の大量生産されるようになりました。大量生産のなかで、機械化され、家屋の建築も大きく変わってきました。しかしながら、それと同時に、日本建築本来の優れた技術や個性が失われつつあります。

「空間を大切にする」日本建築。縁側や囲炉裏などを見ても、自然に人が集う場を作っています。古民家には、そういった日本人の暮らしに根付いた建築が感じられます。

古民家に携わることにより、私自身、学ばされる部分もたくさんあります。純日本的な生活の素晴らしさを感じることのできる古民家を多くの方々に伝えられたら幸いです。次の時代に残すことのできる家屋を創造し続けていきたいと思います。

point

チェックポイント

建物の問題点を調べる

工法によっては間取りや、レイアウト、窓の開口部の変更ができない工法があります。

趣はそのままに耐震性・断熱性を向上させる

最新機能と最新設備を導入しつつ、日本家屋の趣を残すよう再生します。

project

古民家再生プロジェクト

阿部家の再生

Before & After

島根県大田市に位置する石見銀山のある町、大森。

メディアでも多く取り上げられている阿部家の再生を手掛けました。

指定文化財である阿部家の改修は、新しいものは一切使わず、古き良き材を用い、時間をかけて改修しました。

屋根に穴が空き、柱も傾いた母屋を昔ながらの姿に復元しました。

土壁の再生。竹小舞を編み、何度も土を塗り重ねます。

傾いた柱をジャッキアップして痛んだ柱の交換中、震度4の芸予地震。

大工も潰れたか…と思う程の揺れでしたが、持ち堪えてくれました。

暮らす宿 他郷阿部家

阿部家の歴史・機構の概要

主屋は寛政12年(1800)3月の大火で類焼したと伝えられています。

以前は道路端に門長屋もあって中流の士分として格式を備えていましたが、昭和25年ごろ老朽化のため解体されました。

主屋は、切妻造り瓦葺平屋建て。間口は7間半、奥行きは5間の一部に左勝手の土間づいたに3間四方の台所を張り出します。建物正面は左から順に、勝手口、玄関、一間に見物窓をおいて上玄関を備えています。玄関前に前裁から上手は土塀をめぐらし、内に坪庭を設け、そこから表座敷に通じています。居間は玄関の間から南へ三間続きの重列となり、納戸部屋の上にツシ2階を設け、箱階段で上がります。

阿部家の歴史は、慶長6年(1601)、初代清兵衝が甲斐の国から石見銀山代官所の初代奉行大久保石見守長安に50俵3人扶持の銀山付役人に召抱えられたことから始まります。

6代忠太郎が記した由緒書の中に、元和の頃(1615~1623)銀山火災にて所持していた奉行の書物を焼失したくだりがあることから、入国当初はあるいは今の銀山地区に居を構えていたのかもしれません。

 駒の足地区に現在残っている主屋は、修理時に発見された痕跡や建物調査から、寛政元年(1789)に創建され、文政から天保期(1818~1844)に花開いたと推定できます。また、この時期は、銀山附地役人の一人である六代安部忠太郎、地役人で絵師でもあった七代半蔵が闊歩していた時期でもあります。半蔵が残した絵画は阿部家文書として研究・所蔵されています。

復原の年代は、痕跡や修理の際の建物調査から文政から天保期(1818~1844年)とされます。

昭和40年代以降無住の状態が続いたため、幾度かの小修理は行われてきたものの、全体に傷みがはげしい状態でした。

西荻窪南口古民家再生プロジェクト Re:gendo-りげんどう-

石見銀山の阿部家改修がご縁で、東京の西荻窪南口古民家再生プロジェクトにも大工として参加することになりました。

昭和初期に建てられた空き店舗を、島根の職人が集って再生に取り組みました。

総勢15名余りの職人が、近くのアパートを借りて2011年4月から半年の間、島根と東京を往復する生活。

詳しくは西荻プロジェクトブログをご覧ください。

Re:gendo りげんどう